2025年10月

なぜ「私」は生み出されたのか?

脳によって仕掛けられた難解なトリック

Why was the "I" created? A hard trick set by the brain

                                               By 白石 茂

                                                              (Shigeru Shiraishi)

There is the English version. If you are interested in it, please check the following URL.

https://www.why-i-created-e.com

1 論文「心はどこにあるのか?」
の概略と補足の説明
2 本論:なぜ「私」は
生み出されたのか?
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4 ご意見・ご感想

本論 なぜ「私」は生み出されたのか?


第2章 心理空間

 論文「心はどこにあるのか?」の話が長くなりましたが、自らの心の世界に内在する「私」がどのようにして生み出されたのか、そして何故生み出されたのかについて考察を進めることにしましょう。


(2−1)心理空間の特徴

 目の前に広がる世界は、見かけの身体を含め見かけの物質の世界であり、いずれも脳の活動によって生み出された世界、つまり心の世界ということになります。したがって、心を構成するとされる知、情、意のすべてがそこに含まれることになります。そこで、それらすべてを含む空間を新たに「心理空間」と定義して話を進めることにします。今後も見かけの物質の世界、見かけの対象、見かけの身体という言葉を用いることになりますが、心理空間という言葉は物理空間と対比させる形で用いることになります。物理空間が物質の存在する空間という意味を持つのと同様に、心理空間は見かけの物質の世界、それを構成する見かけの対象、そして見かけの身体が存在する空間という意味で用いることになります。ただし心理空間が物理空間と独立して存在するのかどうかについては、ここで論じることは差し控えます。

(1)対象の存在位置は一致しない

心理空間を物理空間と対比させて考えるとき、留意すべきことを2つ挙げておきます。1つ目は、心理空間での見かけの対象と、物理空間でそれに対応する物質としての対象の存在位置は一致していないという点です。例えば、目の前のコーヒーカップに見かけの手を伸ばしてそれを掴もうとするとき、間違いなくそれを掴むことができます。このような経験から、心理空間での見かけの対象とそれに対応する物理空間での物質としての対象の存在位置が一致しているかの印象を持たれるかと思います。確かに、見かけの身体の前に見かけのコーヒーカップが存在し、一方、肉体としての身体の前に物質としてのコーヒーカップが存在するという「相互の位置関係」が一致していることは間違いのないことで、それを否定するつもりはありません。ここで指摘しておきたいのは、物質としてのコーヒーカップと肉体としての手が、いま正に見えているその位置に存在している、という考えは間違いだということです。厳密な表現ではありませんが、端的に言えば、いま見えている見かけの対象の裏返しの位置に物質としての対象が存在している、ということはないということです。更に言えば、心理空間と物理空間とが表裏一体の関係にはないということです。

 事実、目の前に見えている世界は脳の活動によって生み出された心の世界であり、物質の世界とは直接的な関係はありません。見かけの手を伸ばすことで物質としてのコーヒーカップを掴むことができるのは、両者が同調するようなシステム、つまり「同調のシステム」が備わっているからです。私たちが日ごろの生活をスムーズに行うことができているのは、両者を巧みに結び付けている同調のシステムが優れていることにあります。しかし完璧ではありません。そのシステムが混乱をきたす事例はたくさんあります。例えば、鏡に向かって櫛を使って髪をとかすとき、左右の動きに狂いは生じませんが、鏡に映った世界では奥行方向が逆転しているので、慣れていないと上手く櫛を使うことができないのではないでしょうか。「それは鏡に映った世界のことで、現実の世界のことではないからだ」というご意見もあろうかと思いますが、鏡に映った世界も脳の活動によって生み出された見かけの世界であることにご留意いただければと思います。

(2)特性の重ね合わせ

 2つ目は心理活動に伴う特性の重ね合わせの問題です。心理空間には知、情、意という言葉で示されるように様々な心理活動が存在しています。例えば視覚については見かけの対象、聴覚については見かけの音が存在しています。更には見かけの身体に関連して触覚、圧覚、味覚などが存在し、より高度な活動として情動、記憶、学習、思考、言語などが存在しています。それら異なった種類の活動内容がどのようにして心理空間の適切な位置に配置されるのかということ、つまり「重ね合わせのシステム」に注目する必要があります。

 よく知られていることに、聴覚に対しての視覚の優位性の例が挙げられます。例えば、テレビの音声をイヤホンで聞いているとき、登場人物の声は耳元で聞こえているはずです。事実画面を見ていなければ耳元で聞こえます。しかし画面を見ていると、登場人物の口元から声が聞こえてくるように感じます。聞こえているように感じるというよりも、口元に声が存在しています。「声が存在している」という表現に違和感を持たれるかもしれませんが、「声はどこに聞こえますか?」と問われれば、口元と答える他に選択肢はありません。音も存在していることに間違いはないはずであり、存在するからにはその存在位置が特定できるはずです。このような疑問は、聴覚が視覚や触覚に比べるとその存在位置が特定しづらいことに原因があるのでしょう。このように異種の特性が心理空間において重なり合うことを重ね合わせのシステムと呼ぶことにします

 このような異種の特性が同じ心理空間の適切な位置に配置されるのは、感覚に留まりません。感情についても同様です。例えば、目の前に子猫が現れれば、可愛らしいという思いがいわゆる「見かけの心」に生じますが、それと共に、その可愛いという思いが目の前の子猫に重って生じているのがわかります。

あるいは目の前に虎がいる場合についても同様です。それが動物園の鉄格子の向こう側であれば、大きな猫という思いから可愛いという思いを抱く人がいるかもしれません。しかし、それが密林の中でふいに目の前に現れたとなれば、その恐怖がいかほどのものであるかは想像にかたくありません。このときの恐怖は「見かけの心」の中のことであるのと同時に、虎そのものにも付随するものです。

 このように異種の感覚や感情が目の前の対象に重なり合うことは、目の前の世界が脳の活動によって生み出された心の世界であることを考えれば格別不思議なことではないでしょう。

 ここで問題になるのは、猫を前にしたときの「可愛いという思い」と「目の前の猫」との関係です。つまり、図4に示すように、「可愛いという思い」が、

@「見かけの心」から「目の前の猫」へ伝わるものなのか、

あるいは逆に、

A「目の前の猫」を介して「見かけの心」で生じるものなのか、

それとも、

B「目の前の猫」と「見かけの心」の両方に同時に生じるものなのか、

ということです。

 単純な話に思われるかも知れませんが、目の前の世界の性質を考えるとき、重要なポイントになるのは間違いありません。

 後ほど(3−1)の(4)項でもお話することになりますが、このような感覚や感情の重ね合わせは感覚や感情に留まらず、より高度な「私という思い」にも密接な関連を持つことになります。つまり、

 「私」=見かけの身体+見かけの心     B

という図式においては、様々な感覚や感情が見かけの身体の適切な位置に配置されます。一方、目の前の対象から「私」に向けて感情などが生み出されるのであれば、それは「私」について考えるとき、重要な意味を持つことになります。例えば「見ている」、あるいは「考えている」という思いも適切な位置に配置されています。「見ている」ということについては、見かけの視線の逆方向に「見ている私がいる」という思いが「見かけの心」に生み出されます。「考えている」という場合には言語を用いることが多いかと思いますが、言葉の使用に伴い「考えている私がいる」という思いがやはり「見かけの心」に生み出されます。このように様々な特性が目の前の世界に展開するということは、「私の生成」に大きな役割を果たすことになるはずです。


(2−2)存在と認識

 このテーマからは哲学の話をしようとしているのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。存在と認識が、物理空間と心理空間とでどのように捉えられているかについての話になります。

 まずは物理空間での話です。物理空間では、存在と認識の関係を直接結び付けるような事実は明らかになっていません。敢えて言えば、物質で構成された脳の機能によって認識が生まれるということであり、脳と認識との関係が論じられることはあっても、物質の存在と認識そのものの関係が論じられることはありません。

 一方、コンピューターによって制御された機械が、その対象が何であるかを判断して答えを導き出すことを指して認識されたと表現されることがあります。確かに、その対象が何であるかを特定するコンピューターの情報処理の仕組みは、脳の情報処理の仕組みに類似しているところがあり、そのプロセスを指して認識されたと表現することは、ある意味、理にかなったことかもしれません。現に様々な機械がコンピューターを駆使して情報の処理を行い、高度な仕事をこなしているのは事実です。しかしそのプロセスは、人間などの生物に特有な認識のメカニズムと同じであると考えるのは無理がありそうです。

 一方、心理空間では、「どのようにして心理空間に見かけの対象が生成されるのか?」、そして、「それがどのようにして認識につながるのか?」が、解決されるべき課題となります。前者についてはその詳しい仕組みはわからないものの、視覚や聴覚などの生理学的なシステムにより、例えば目の前の世界に視覚に基づく見かけの対象や、聴覚に基づく見かけの音が生み出され、そしてそれらが心理空間での存在となるのでしょう。一方後者については、脳の情報処理によりそれに関連した内容が重ね合わせのシステムによって、見かけの対象に重ね合わされることが認識につながるのではないかと推測しています。

 図5(a)をご覧ください。それが円であることはわかるかと思いますが、それ以外、何ら特徴らしいもののない図形が描かれています。そうとは言っても、図形が存在していること自体はもちろん分かると思います。次に図5(b)をご覧ください。先の図に新たな特徴が描き加えられています。それによりリンゴであろうと推測できると思います。つまり、何であるかは分からないものの存在そのものは分かるという低次の認識の段階から、それが何であるかが分かるという高次の認識の段階へと変化したことになります。その背景には「重ね合わせのシステム」が関与し、図形に意味が与えられたことによるのでしょう。

 認識は目の前の世界からどこか別のステージで生じると考えられがちですが、そうではなく、見えていること、聞こえていることそれ自体が認識であることに、心理空間の特徴があると言えそうです。つまり認識には2つのタイプがあるということです。1つは心理空間に存在していること自体が認識であるということ(ステージ1)で、心理空間で完結しているタイプです。いま1つは対象が何であるかがわかるということ(ステージ2)で、脳の情報処理が関与し、重ね合わせのシステムで意味が付与されるタイプです。


第3章 なぜ「私」は生み出されたのか?

 ここで取り挙げるのは次式で示される物理空間に存在する私ではなく、

 私=肉体としての身体+知情意で示される抽象的な存在   A

次式で示される心理空間に存在する「私」についてです。

「私」=見かけの身体+見かけの心      B


(3−1)「私」を構成する2つの要素と2つのシステム

 B式で示すように、「私」を構成するのは「見かけの身体」と「見かけの心」の2つの要素であり、それらを脳の情報処理の観点からサポートしているのが「重ね合わせのシステム」と「同調のシステム」の2つです。つまり2つの要素とは

 「見かけの身体」と「見かけの心」

であり、それらの関係をサポートしているのが

 「重ね合わせのシステム」と「同調のシステム」

の2つのシステムです。

 さらに、これらの中にあって、「私という存在」の核心部分を担っているのが「見かけの行為」であると言えます。つまり、これら2つの要素と2つのシステムから成り立つ「私」の理解の鍵となるのが「見かけの行為」であり、それらをバックアップしているのが、「重ね合わせのシステム」と「同調のシステム」だと言えます。「見かけの行為」により、「見かけの身体」は「私の身体」という意味を獲得し、また「見かけの心」は「私の心」という意味を獲得することになります。

 これら2つ要素と2つのシステムはそれぞれ独立して存在しているわけではなく、相互に補完する関係にあり、全体で1つの「心の世界」を構成することになります。事実、2つの要素はいずれも同じ心理空間に存在しているということに留意していただきたいと思います。

 これからそれらについて解説することになりますが、それらは相互に密接に関連していることから、話が重複することになります。ご了承ください。

(1)見かけの身体

 「目の前の世界は物質の世界ではない」という主張は納得しづらいことでしょうが、それ以上に納得しづらいのが、目の前の自らの身体の解釈です。それが肉体としての身体ではなく、脳の活動によって生み出された「見かけの身体」であるということはこれまでにお話した通りですが、納得しづらいことでしょう。

 目の前の見かけの身体が肉体としての身体であると誤って認識される原因はいろいろとあります。視覚の観点からすると、見かけの身体は目の前に見えていること自体が存在であり、同時に認識となります。見かけの身体は視覚的に認識されることに加え、触覚、圧覚、痛覚などの感覚が見かけの身体に重ね合わされ、自らの身体としての意味が更に深まることになります。詳細は、(1−1)「見かけの世界」の項で紹介した当該の論文を参照していただけたらと思います。ただここで1つお話しておきたいのは、のちほどお話する「見かけの行為」は「見かけの身体」、さらには「見かけの心」の解釈に大きな役割を担っているという点です。

 目の前の身体が自らの身体であると認識されるには、乳幼児期からの一連の体験が大きな役割を担っていることはご存じの通りです。乳児は寝返りができない段階から、頭上に吊るされたおもちゃを見つめ、それに向けて手を伸ばすなどの行為を行い、目の前に見えている見かけの手が自らの思いに連動して展開するという「見かけの行為」を経験することになります。さらには目の前の見かけの手がおもちゃに触れることによってもたらされる感覚から、自らの身体としての認識が更に深まることになります。見かけの身体そのものは受動的な存在ですが、いまの例にもあるように、見かけの行為を通して能動的な存在となります。ここでお話しているのはもちろん、肉体としての身体が存在するという前提での話であり、見かけの行為は肉体としての身体の行為に基づくものです。このように、見かけの身体が肉体としての身体の意味を獲得するうえで、見かけの身体に伴う見かけの行為が重要な役割を担っていることに注意が必要です。

(2)見かけの心

 心がどのように解釈されているかと言えば、例えば、比較的低次の活動については、私が見ている、私が聞いている、私が手を動かしている、などの行為を挙げることができます。一方、より高度な活動としては、私が考えている、私が記憶している、私が決断する、などの行為を挙げることができます。

 確かに、これらの行為は脳の情報処理に基づくのは間違いのない事実です。しかし同時にこれら意識化された現象は心の世界における「見かけの行為」であり、見かけの行為に付随して「見かけの心」が生み出され、同時に「私という思い」が生み出されると考えることができそうです。

 これまでにもお話しているように、「見かけの心」は「見かけの身体」とは異なり、直接認識することはできません。「私が見ている」などの見かけの行為に伴い認識されることになります。例えば「私が見ている」という思いからは「重ね合わせのシステム」によって、見かけの視線の逆方向、つまり見かけの身体の目の背後に、「見ている私がいる」という思いが生み出され、その存在場所を獲得することになります。さらには同調のシステムにより、見かけの身体を操作できるという思いから、行為する者、つまり「行為者」としての意味を獲得することになります。

 「見かけの心」は、「何々の行為を行っている」という「見かけの行為」にその起源を有していると言えそうです。詳細は(3−2)の(3)項でお話することになります。 「見かけの心」と表現するのは、これもすでにお話しているように、「本来の心の世界」が目の前の自らの身体を含めた目の前の世界全体を表すのに対し、それとは異なるという理由からです。

(3)見かけの行為

 見かけの行為とは、目の前の世界において見かけの身体に現れる行為のことを指します。例えば、目の前に展開する、私が見ている、私が手を動かしている、私が考えているなど、私たちが日常経験している行為は、確かに肉体としての身体において、それらに対応する実体を伴う行為が行なわれています。「私が見ている」ということについては、肉体としての眼が対象に向けられています。「私が手を動かしている」ということについては、肉体としての手が対象に向かって動いています。「私が考えている」ということに関しては、脳が情報の処理を行っています。

 ただし、目の前に展開するそれらの行為は、重ね合わせや同調のシステムよって意味づけされているものの、あくまでも見かけの行為であり、実体を伴う行為を行っているわけではありません。見かけの行為により見かけの身体と見かけの心が結び付けられ、切り離すことができない一体感が生み出される原因になっていると考えることができそうです。

 身体と心は別の存在であるという思いが根強いかと思います。事実A式で示されるように、一般常識では別の存在です。しかし心の世界においては、両者は一体をなす存在ですが、その一体感を生み出し両者を結び付けているのが「見かけの行為」であると言えそうです。「見かけの行為」によって見かけの身体は肉体としての身体の意味を獲得し、一方、「見かけの行為」が自らの思いに連動して見かけの身体の動きとして現れることで、見かけの心は心としての意味を獲得することになると言えます。詳細はのちほど(3−2)の(3)項でお話することになります。

(4)重ね合わせと同調のシステム

 重ね合わせのシステムとは、(2−1)の(2)項でお話したように、心理空間の中に存在する対象にさまざまな特質が重ね合わされることを指します。例えば、目の前のテレ画面の登場人物に音声が重なるように、ある感覚の上に別の感覚の特質が重なり合ったり、目の前の子猫に可愛いという感情が重なり合ったり、さらには「子猫を私が見ている」という思いから見かけの心に可愛いという思いが生じることなどを表します。このように一見異種の特質が心理空間の中で適切な位置に重なり合って存在するのを支えているのが重ね合わせのシステムです。

 同調のシステムとは、これも(2−1)の(2)項でお話したことですが、見かけの身体と肉体としての身体が同調して動くことを指します。目の前の見かけの手が見かけのコーヒーカップに向けて動くとき、肉体としての手も物質としてのコーヒーカップに向けて動いています。これが同調のシステムです。ここで、どちらの動きが先になるかが問題になります。一般常識では、肉体としての手の動きが先で、それが元になって見かけの物質の世界で見かけの手の動きがそれに続くと考えられています。確かに、目の前の世界が物質の世界のコピーであることを考えれば、ごく自然な考えであると思われます。

 ただし、ここで1つ問題が生じます。それは「見えている」ことがどのような働きを担っているかについてです。例えば、物質の世界においてコーヒーカップに向けて手を伸ばすとき、手が正しくカップに向かっているかどうかをどのように認識しているのかということが問題になります。単純に考えて、カップに向かう手の状態がわかっていなければ、手の動きを制御することはできないのではないでしょうか。

確かに最近の機械は優れた機能を有しており、人間のような意識化された現象が生じていなくても巧みに課題をこなすことができています。たぶん人間とは異なる情報処理のシステムを構築しているからでしょう。ただし、ここで問題にしているのは私たち人間の情報処理の話であり、この点については次の節でお話することにします。


(3−2) 心の世界の中の「私」という存在

 すでにお話しているように、この論文は私、あるいは「私」ついて次のような3つの図式のもとに話を進めています。つまり、「私という存在」は「私の身体」と「私の心」という2つの要素から成り立っているという考えから、

 私=私の身体+私の心        @

として話を始めています。そして、一般常識での私は

 私=肉体としての身体+知情意で示されるような抽象的な心  A

から成り立っていると考えられていると言えるでしょう。

 一方、この論文での「私」は、私の身体は「見かけの身体」であり、私の心は「見かけの心」であることから

「私」=見かけの身体+見かけの心    B

から成り立っているとして話を進めています。

(1)自らの心の世界に内在する「私」

 改めて図2を用いて話を進めることにしましょう。まず図2(c)をご覧ください。物質の世界にA式で示される私が存在している様子を表しています。一方図2(b)は、心の世界の中にB式で示される「私」が存在している状況を表しています。B式では「私」が「見かけの身体」と「見かけの心」から成り立っていることが示されていることから 、「私」が周りの世界から独立して存在しているかの印象を持たれるかもしれません。

 しかし、実際はそうではありません。「脳の活動によって生み出された世界を心の世界とする」という定義のもとでは、「心の世界」は目の前の見かけの身体を含め、目の前に展開する世界のすべてであることになります。この解釈からすると、まことに奇妙なことではありますが、「私」は「見かけの身体」と「見かけの心」から成り立ち、自らの心の世界に内在していることになります。言わば入れ子細工の様相を呈していることになります。したがって「なぜ私は生み出されたのか?」という問い掛けは、「なぜ目の前の世界は生み出されたのか?」という問いにまず答えを出さなければならないことになります。この点については次の項でお話することになります。

(2)外界のコピーであることの意味

 人間を始めとして様々な生物が脳による優れた情報処理能力を持っているのは間違いありません。しかし、コンピューターほどの膨大な記憶容量を有しているわけではありませんし、また情報の処理スピードもコンピューターに遠く及ばないのも事実です。しかし、そのような条件のもとにおいても私たちは外界で巧みに生きています。その弱点を補強するのが外界のコピーを作成し、それを利用することだと言えます。

 目の前に見えている世界と自らの身体は、見かけの物質の世界と見かけの身体であり、物質の世界と肉体としての身体の、言わばコピーであると言えます。もちろん完全なコピーではありせん。事実、目の前に誰かの顔写真を置いてそれを見てみれば一目瞭然です。視線を少しずらしただけで写真はぼやけてしまい、誰の顔かわからなくなります。「視線がずれることで眼の解像度が低下するからだろう」という反論があろうかと思います。正にその通りです。解像度の低さが原因となって、目の前の世界にそのぼやけた像が結果として現れているわけです。つまり、目の前の世界は物質の世界ではなく、脳の活動によって生み出された見かけの世界だということの証拠の1つになると思うのですが、如何でしょうか。

 なお、物質の世界(外界)が目の前の世界と如何に異なるかは、論文「心はどこにあるのか?」の第2章第1節の「実は奇妙な物質の世界」で説明していますので、参照していただければ幸いです。

 ここで「外界のコピー」と表現するのは、2つの世界にそれぞれ配置されている対象の外形と相互の位置関係です。例えば、図2(b)に示すように、目の前の世界に存在するコーヒーカップは物質としてのカップの外形を表し、かつ見かけの身体の前方に位置しています。物質の世界においても同様で、図2(a)に示すように、物質としてのコーヒーカップは肉体としての身体の前方に存在しています。その関係を「外界のコピー」と表現しています。

 外界のコピーと言っても、ただの写しというわけではありません。その背景には「重ね合わせのシステム」と「同調のシステム」、更には「認識」という重要な要素が関与しています。まず重ね合わせのシステムによって目の前のコーヒーカップはコーヒーを飲むための器という意味が付与され、目の前の手は肉体としての手の意味を持つことになります。それによってコーヒーを飲みたいという「欲求」に対し、目の前のコーヒーカップは行動の「目標(誘因)」となり、目の前の手はコーヒーを飲む行為の「手段」となります。その背景には、目の前の世界での存在は同時に認識でもあることが重要な役割を担っていることに注意が必要です。

 外界のコピーの存在によってもたらされる利点として、同調のシステムによる情報処理の効率化を挙げることができます。物質の世界において、肉体としての手が物質としてのコーヒーカップに向けて移動するとき、同調のシステムに基づき、目の前の世界において見かけの手が見かけのコーヒーカップに向けて移動します。この見かけの手の動きを指標とすることで、物質の世界での肉体としての手を制御することが可能になります。

このとき、目の前の世界に存在することが同時に認識でもあることが、情報処理のステップの簡略化に貢献することになります。例えば目の前の見かけの対象であるコーヒーカップに見かけの手を伸ばすとき、手がカップに対して左右にずれていれば、「見えていることが認識でもある」ことから、ずれが認識されます。認識というと目の前の状況から一旦別のフェーズに転送されて行われると考えられがちですが、しかし実際は目の前の世界で完結しています。

 どのようにして同調のシステムが形成されるかについては、(3−2)の(4)項でお話することになります。

言葉の役割

 情報処理について考えるとき、注意すべきことの1つに言葉の役割を挙げることができます。つまり、目の前の世界で繰り広げられる活動は、言葉を用いなければ制御できないと考えるのは必ずしも正しいとは言えないということです。図2(b)に示すように、コーヒーカップに手を伸ばしてそれを掴むという場面を再び例にとって考えてみましょう。台風の影響で停電し、うす暗いなかローソクの灯りを頼りに注意深く手をカップに近づけなければならないようなとき、「近づいている」という言葉が思い浮かぶかと思います。しかし「近づいている」という言葉があって初めて近づいていることが認識されるのではなく、「近づいている」という目の前の情景自体が認識であり、その結果として「近づいている」という思いが生じ、それが言語化されるというのが正しい解釈です。つまり、認識とその言語化には時間的なずれがあるということです。事実、私たちの日頃の行動を考えてみれば、そのほとんどが言語化されていません。あるいは言語機能を持たないと考えられている動物の場合でも、行動を制御できています。ある一定程度の進化を遂げた動物は私たち人間と同様に、見かけの身体と見かけの物質の世界という枠組みのなかで行動を制御しているのではないかと考えられます。

 確かに高度な論理を駆使するような場合には言葉が必要でしょうし、重要な働きを担っているのは間違いないでしょう。しかし、言葉がなければ手をカップに近づける行動を制御できないと考えるのは間違いだということを指摘しておきたいと思います

このような例からも分かるように、心理空間に存在することは同時に認識でもあり、さらには、脳の情報処理の結果が重ね合わせのシステムにより、目の前の対象に様々な意味づけがなされることになります。前項で指摘した「なぜ目の前の世界は生み出されたのか?」の回答の一端は、情報処理の上で「心理空間に外界のコピーを生み出すことが好都合だから」ということになるでしょう。

(3)「見かけの行為」から「私という思い」の生成

 すでにお話したように、「私という思い」は「見かけの心」の中核を成すものですが、それ自体が認識されるわけではなく、「見かけの行為」から派生する「行為する者」、つまり「行為者」という思いから生み出されると考えられます。なぜそのように考えられるかについて、(3−1)の(3)項でお話した「私が見ている」、「私が手を動かしている(p18)」、「私が考えている」などの「見かけの行為」を通して考えてみましょう。

 最初の例は、「私が見ている」という行為についてです。「見る」という行為により、目の前に見かけの身体を含めた見かけの物質の世界が現れますが、前にもお話したように、実際は「私」がそれらを見ているわけではなく、脳の情報処理の結果としてそこに存在しているというのが正しい解釈です。もちろん物質の世界そのものがそこに存在しているという意味ではありません。しかし私たちはそうとは考えず、それら目の前の世界を物質の世界であると誤って認識し、「私が見ている」という思いを持つことになります。その結果、見かけの視線の逆方向に「見ている私がいる」という思いが生み出されることになります。

 「見ている」という「見かけの行為」を行っているのはどのような存在なのか?その思いの生成を担っているのが「行為者」という思いであると言えます。つまり「見かけの行為」に基づいて、その行為を行っている存在として「行為者」という思いが生じ、その結果として「私という思い」が生み出されることにつながると言えます。別の観点からすれば、「私という思い」を介して「見かけの行為」に「行為者」という思いが生み出されるとも言えます。図式で表せば

 「見かけの行為」→「行為者」→「私という思い」

あるいは、

 「見かけの行為」→「行為者」←「私という思い」  (注:2番目の矢印の向きが逆)

ということになります。みなさんご自身で考えていただくと、その意味が実感できるのではないでしょうか?

 2つ目の例として、目の前の対象に向けて手を動かす、という場合について考えてみましょう。まず肉体としての手を動かそうという思いが生じ、それと同時に肉体としての手が動きます。それを反映して目の前の世界で見かけの手が動きます。その「見かけの行為」が認識されることに伴い、「私が手を動かしている」という思いが生じ、目の前の手は自らの手の意味を獲得し、その「私が手を動かしている」という思いから「行為者」としての意味が形成され、同時に「私という思い」が形成されることになります。

 この場合も皆さんご自身で試してみてください。キーボードに向かって文字を打ち込もうとしたとき、目の前の指が動き、「私の意志で指を動かしている」という思いが生じると思います。その体験から「行為者」としての意味が生み出され、「私という思い」の存在が確認されるのではないでしょうか?もっとも、「自分ほどタイピングのスキルがある者は、無意識に打てている」と思う人もおいでかと思います。確かに指を動かすのは無意識的ではあっても、打ち込む内容は「私という思い」に基づいているのは間違いないのではないでしょうか?

 3つ目の例として「私が考えている」という場合についても検討してみましょう。この場合は、前者の2つのケースとは異なり、高度な機能が関係します。例えば、伸縮自在のゴムで作られた球体に穴を1個開けて、その表裏をひっくり返す場面を想像してみてください。多分「見かけの心」の中で球体のイメージが思い浮かび、その穴を広げていってくるりと反転させることができると思います。「簡単なことだよ」と思われることでしょう。しかし、それを分かるように表現するとなると、図6に示すように案外難しいことがわかります。

 つまり、@からAにかけて穴を広げ、BからCで半球を反転し、DからFで裏面を引き延ばしています。

イメージを作成してそれを操作できるのは脳の情報処理のおかげでしょうが、同時に生み出されるイメージは心理空間内の出来事です。このような操作が自動的に行われているとは思えず、「私が考えている」という「見かけの行為」に基づいていると言えるでしょう。そこから「行為者」としての意味が生み出され、同時に「私という思い」が生み出されると考えられます。

 これまでの話を、図7を使ってまとめてみましょう。

 @ 「見かけの心」から「見かけの身体」に向けて指令が出される。

 A 「見かけの身体」に「見かけの行為」が現れる。

 B @とAを通して「行為者」という思いが生じる。

 C 「行為者」という思いから「見かけの心」に「私という思い」が生じる。

 D @からCを通して「見かけの心」に意思などの高度な観念が生み出される。

要約すれば、様々な「見かけの行為」により「行為者」としての意味が形成され、同時に見かけの視線の背後に「私という思い」が生み出されることになる。

 一般常識でも「身体と心の一体感」には根強いものがあり、両者は切り離すことができないと考えられていますが、それを反映して「見かけの身体」と「見かけの心」も同様で、両者の間には強い一体感があります。その一体感は両者が共に脳の活動によって同一の心理空間に生み出され、「見かけの行為」で結び付けられていることに由来するからだと考えられます。

(4)2つの世界をつなぐ記憶の役割

 脳の活動によって心理空間に生み出されるのは「私」だけではありません。目の前に展開する世界のすべてが、脳の活動によって生み出された物質の世界と肉体としての身体のコピーです。その役割は情報処理の効率化と簡略化、さらには行動の判断、決断、実行のためだと考えられます。事実、「物質の世界」で行動を起こすとき、「目の前に広がる世界」、つまり「心の世界」から得られる情報を利用しているのは間違いないでしょう。この点について次に検討しましょう。

(例)水たまりを避ける行為

 例えば、目の前に水たまりがあった場合、それを避けて通ると思います。では、「どうして避けることができるのか?」という問い掛けに、皆さんはどのように回答されるでしょうか?「そんなことは当たり前ではないか。水たまりが見えていれば、濡れたくないと思うからだろう」と回答されるのではないでしょうか。

ただし、この回答には問題があります。目の前に見えている世界は、すでに度々お話しているように、脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界、すなわち心の世界であり、そこでの見かけの行為が物質の世界の存在である肉体としての身体の動きとどのような関係があるのか?という問題です。この回避行動の背景には、重ね合わせのシステムによる水の性質についての知識があり、かつそれを行動に移すための同調のシステムによる身体の制御があると言えます。それらによって、水たまりを回避する行動が可能になるという事実に注意する必要があります。

 これらのシステムを有効にするカギを握るのが記憶ではないかと考えています。もっとも「それは当たり前のことではないか。水についての知識(記憶)があり、濡れたくないという思いがあるからだろう」というご意見でしょう。しかし、ここで取り上げている問題は、濡れたくないという心理現象が、水たまりを避けて通るという物理現象とどのような関係にあるのか?という話であることにご注意いただきたいと思います。つまり心理現象と物理現象の橋渡しをしているのが記憶ではないかと推測しているのです。

 脳の活動によって、心理空間に見かけの世界がどのようにして生み出されるのかはわかりませんが、因果関係があるのは間違いないでしょう。「心理現象は脳の活動の影のような存在か?」という問い掛けがありますが、脳は無用なものをわざわざ生み出すとは思えません。この問題は「目の前の世界に存在することは同時に認識でもある」という事実が重要な意味を持つのと同時に、その背後には記憶が関係していると推測しています。このような認識と記憶が関係するシステムは、成長の過程で様々な経験を通して形成されると考えられます。いま少し単純化された次のようなケースについて考えてみましょう。

(例)乳児の行動にみられる、試行錯誤を通しての記憶の形成

 図8に示すように、まだ上手く這うことができないような乳児が、目の前の熊のぬいぐるみを掴もうとして手を伸ばしている状況について考えてみましょう。このときの乳児は手の動かし方にあまり慣れていない、という設定で考えます。

 もしぬいぐるみに対して見かけの手の向きがずれていれば、何とかぬいぐるみに辿り着きたいという思いから、手の向きを修正しようという思いが生まれます。それに対応して肉体としての手が移動し、その結果が目の前に見かけの手の動きとして現われます。このときの経験、つまり「このように力を入れれば、見かけの手が動き、対象に近づくことができる」という認識に基づく経験が成功体験となり、その積み重ねで力の入れ方が記憶として定着することになり、同調のシステムが形成されることになります。また一方、重ね合わせのシステムにより、目の前の見かけの手が肉体としての手であるという意味の獲得につながり、それが記憶として定着することになります。

 乳児にとって認識されるのは、目の前に展開するぬいぐるみと、それに対する見かけの手の動きであり、物質の世界の情景と肉体としての手の動きそのものではありません。また、このような行為は最初から上手くいくわけではなく、いわゆる試行錯誤を重ねることで見かけの手と肉体としての手の動きが記憶を介して関係性が確立され、スムーズな動きにつながっていくと考えることができそうです。

 見かけの手をぬいぐるみに近づけようとして試行錯誤で動かしているとき、そのときの行為はすべて認識でもあります。あるとき偶然見かけの手がぬいぐるみに近づく動きをしたとき、それは認識でもあるので、その思いが記憶に刻まれます。直接的な関係ではないかもしれませんが、間接的に認識が行動に結びついていると考えることができそうです。つまり、見かけの行為が肉体としての行為と結びつくのは、試行錯誤の結果が記憶に蓄積されることによるのではないか、と考えています。

 心理現象としての見かけの行為と物理現象としての肉体による運動は、もしかしたら両者が直接的に結びつく相互作用の仕組みがあるのかもしれませんが、現時点では、記憶という仕組みを介することで、相互の間に関連性が形成されるではないかと推測しています。記憶は活性化されなければ単なる痕跡のようなものですが、一旦活性化されると認識へとつながる特性を持っている点に注目しています。

 このような現象、つまり手を動かすことで対象に近づくことができるという行為は、目の前の世界が物質の世界であるという一般常識の立場からすれば、ごく当たり前のことであり、疑問を差し挟む余地などないということでしょう。しかし目の前の世界が脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界であることを考えるとき、そう単純な話ではないことが分かります。またこのような仕組みが如何に有効であるかは、私たちの日ごろの生活を考えてみれば一目瞭然でしよう。

 見かけの身体は目の前に見えていることが認識であり、並びに自らの思いに伴って動くことで「私の身体」の意味を獲得することにつながると考えられます。一方、身体を動かそうという思いのもと、目の前で身体に動きが生まれますが、その見かけの行為に伴い、行為者という意味が獲得され、それが「私の心」の意味の獲得につながると考えられます。

 つまり、

 「私」=見かけの身体+見かけの心  B

の図式から、一般常識としての

  私=肉体としての身体+私の心(知情意)A

の構図が形成されることになります。

(5)なぜ「私」は生み出されたのか?

 「なぜ「私」は生み出されたのか?」という問い掛けに対する回答は、(3−2)の第(1)項から第(4)項で、お話してきたことの中にすべてがあります。そこで考察を進めるにあったては、(3−2)項でお話したことが元になります。内容が重複することになりますが、ご了承ください。

 第(1)項では、脳の活動によって心理空間に生み出されるのは{私}だけではなく、「私」を含めた目の前に広がる世界そのものがそうであることから、「なぜ「私」は生み出されたのか?」という問い掛けには、まず「なぜ目の前の世界は生み出されたのか?」という問いに答えを出さなければならない、という指摘がされました。

 その回答として第(2)項で、私たち生物は情報処理の効率化と簡略化を図るには、自らの身体を含めた外界のコピーを作成することが有効だからだ、と結論づけました。事実、それがコピーであるとは思えないほどの巧みな構成になっており、私たち自身でもそうとは気づかないほどであり、それが本論文の副題を「脳によって仕掛けられた難解なトリック」とした理由でもあります。このようなシステムの背景には重ね合わせと同調のシステムが有効に機能していると考えられます。また、心理空間に存在することは同時に認識でもあることが、情報処理の効率化と簡略化に寄与していると考えています。

 更に、第(3)項では、自らの心の中核を成す「私という思い」の生成について考察し、心理空間で繰り広げられる「見かけの身体」にまつわる「見かけの行為」から「私という思い」が生み出される、との結論を導きました。事実、「見かけの行為」は単なる静的な現象ではなく、自らの思いに藻づいて行動する動的な現象であり、そこから意思のような高度な心理活動が誕生することが伺えます。

 そして第(4)項では、心の世界と物質の世界という異なる2つの世界をつなぐ仕組みについて考察し、その役割の一端を担うのは記憶ではないか?という推論がなされました。事実、記憶そのものは脳の中の組織の一部としての機能であり、普段は静的な存在ですが、いったん活性化されると心理空間に非物質な現象を生み出す機能を有しています。心身問題解決につながる1つの鍵になるのではないかと考えています。

本論文のまとめ

 本論文の結論は、「心理空間の特徴である認識という性質を活用するために、「私」を含めた外界のコピーが心理空間に生み出された」、ということになります。つまり脳の活動によって生み出された世界を心の世界とする定義のもとでは、「私」は自らの心の世界に内在していることになります。繰り返しになりますが、そのことに私たちは気づいていないわけで、それこそが「難解なトリック」と言えるでしょう。

 自らの心の世界に「私」が生み出されたことが、知情意というより高度な心理活動の形成へとつながると推測できるでしょう。

生命の身体面での進化はよく知られている通りで、何十億年もかけて成し遂げられてきました。心理面においても同様に進化がみられるはずであり、それは心の進化とでも言えそうです。その実態はまだ明らかになっていないものの、その進化の道のりの縮図の一旦は、乳幼児の発達の過程に垣間見ることができるような気がしています。

追記

 本論文のタイトルの「なぜ「私」は生み出されたのか?」の「なぜ」という言葉には2通りの意味があります。1つは「どのような経緯で「私」は生み出されたのか?」という意味で、それについては本文を通じて説明してきたつもりです。いま1つは「どのような役割を「私」が担っているのか?」という意味で、それには記憶が関与しているのではないかとの推測を行いましたが、それでは不十分であることは承知しています。その回答には「認識とは何か?」という問い掛けに回答を得る必要があると考えています。事実、心理空間に存在することは同時に認識でもある、とお話してきましがたが、では「認識とは何か?」という問題が残ることになります。知る、分かる、認識する、という一連の現象はどのような意味を持つのか?哲学ではなく科学の立場から明らかにする必要がありそうです。


あとがき

 最後まで目を通していただけたのであればまことに幸いです。多分、「そんなことはあり得ない」というのが大方のご意見かと思います。事実、かつての同僚らにも読んでもらっていますが、大方はそのような感想でした。

私はと申しますと、「私とは何か?」という問題に最初から関心があったわけではありません。そのような漠然とした問題に答えを出せるとは思っていませんでした。当初の関心は、目の前の見かけの物質の世界が情報処理においてどのような役割を果たしているのか?についてでした。しかし、それが幸いしたようです。最初から「私とは何か?」という問題に取り組もうとしていたら、袋小路に迷い込んでしまっていたものと思います。事実、最初から「私とは何か?」という問題に取り組むのは無理があろうかと思います。余りに常識的な、それだけに疑問を差しはさむことのできない強固な理屈が用意されているからです。それを打破するためにはまず目の前の世界の本質を明らかにすることであり、それには目の前の世界を物質の世界と解釈すると矛盾が生じることに気づくことだと考えています。

 人工知能の発展には目を見張るものがあります。私が人工知能について一番関心を寄せているのは、機械が自らの身体を持ったとき、どのような変化が現れるかにあります。本稿でお話しているように、私たち人間にとって、自らの身体の認識が「私」の生成に大きな役割を担っていると考えているからです。

 フランスの哲学者メルロポンティは身体の存在の重要性について語っているとのことです。私の考えが彼の考えと一致するかはわかりませんが、これまでの話からおわかりのように、私も、身体、特に見かけの身体に現れる「見かけの行為」の重要性に注目しています。いま一度、彼の身体論を考察し直してみようと思っているところです。

 AIの進歩から様々な仮説が提唱されています。しかし仮説よりも大切なのは、共通の理解が何なのかを明らかにする段階に来ているということです。僭越ではありますが、その共通の認識の基礎となるのは、目の前の自らの身体を含めた目の前に広がる世界は脳の活動によって生み出された「見かけの世界」であることの理解であると考えています。

 郊外に住んでいることから、いろいろな生き物が部屋に迷い込んできます。今朝も体長2ミリほどの昆虫が外に出ようとしてガラス窓の内側を這い回っていました。体長2ミリとは言ってもその身体の仕組みは巧みなものです。6本の足を巧みに操って滑らかなガラスの上を滑り落ちることもなく歩き回り、羽を使って空中を飛翔することも可能です。

その活動を制御する機能も侮れません。光の方向を感知する視覚機能を備え、餌を検知するための、たぶん分子レベルの検知能力を持つ感覚器官を備え、更には子孫を残すための生殖機能も有しています。このような生物の優れた能力のことを考えれば、私たち高等生物の認識能力は私たちの理解を超える、きっと優れたものであろうと想像しています。

 この小さな同胞の行く末は分かりませんが、自らの一生をまっとうできることを願いつつ、窓を開けてお引き取りいただきました。2025年、秋の朝のことです。


自己紹介

 余りに常識離れした話であることから、エセ科学の危ない人物の話ではないかと思われるかもしれませんので、簡単に自己紹介をさせて頂きます。私(白石 茂)は早稲田大学(東京/日本)大学院博士課程(心理学専攻)を修了し、その後東京都内の大学で非常勤の講師(心理学担当)を長年務めて参りました。専門教育を受けているからといってその人の考えが科学的だという証には必ずしもならない、ということは重々承知しています。ただ口はばったいことを言うようですが、客観的な事実の積み重ねで論理を展開する訓練は積んできたつもりです。批判的に原稿を読んで頂き、感想や反論を「4ご意見・ご質問」から送っていただければ幸いです。


論文のアドレス

日本語版:心はどこにあるのか? 脳によって仕掛けられた難解なトリック

URL:  https://www.where-mind-j.com (A4版110ページ)

(注:論文はPDFファイルで110ページとかなりの分量ですが、興味深いトピックを紹介しながら、分かり易い解説を心掛けたつもりです。)

English version: Where is the mind?  A hard trick set by the brain

URL:  https://www.where-mind-e.com  (110pages on A4 paper)


日本語版:私とは何か? 脳によって仕掛けられた難解なトリック (A4版30ページ)

URL:   https://www.what-am-i-j.com 

(注:論文「心はどこにあるのか?」の第4章第3節を重点的に解説しています。A4版30ページほどで、ホームページ上で読めるとともに、PDFファイルをダウンロードしても読むことができます。)

English version: What am I?  A hard trick set by the brain

URL:   https://www.what-am-i-e.com  (30pages on A4 paper)


日本語版:見えるとは何か? 脳によって仕掛けられた難解なトリック (A4版10ページ)

URL:   https://www.what-visible-j.com 

(注:謎解きのすべてのスタートは「見えるとは何を意味しているのか?」を理解することにあります。この点に焦点を当てて簡潔な解説を心掛けています。)

English version: What is being visible?  A hard trick set by the brain

URL:   https://www.what-visible-e.com  (10pages on A4 paper)


2025年10月 白石 茂

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